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はじめに
ブログと題していますがこれをブログと呼ぶのかは謎です。
掲示板のCGIを流用しているので見た目が掲示板っぽいですが私しか投稿出来ません。
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記事
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中原中也の「骨」において、「僕」は川べりに立つ自らの骨を見ている。死後霊魂となった「僕」は、再び自らの体の下へと舞い戻り、生前の肉体を構築していた骨を眺めている。状況だけ見ればグロテスクであるが、光沢もなくしらじらととんがった骨は静寂な無機質さを帯びており、そこには最早「けがらはしい肉」の感触は無い。 中也は「芸術論覚え書」において「芸術といふのは名辞以前の世界の作業で、生活とは諸名辞間の交渉である」と述べているように、芸術家とは事象が人間の言葉により区画され定義されることを免れた、名辞以前の世界を描き出すべき存在だと考えていた。生活において必要となる名辞は事象に対する固定観念を与え、それこそが芸術を衰退させると考えていたのである。 しかし芸術家たる詩人にも特別の機能を持った言葉が与えられるわけではないから、自然中也の書く言葉には、生活に使用される範囲を逸脱した多面的な意味が担わされている。その多義性の解釈は名辞以前の世界に誘われた読者に委ねられるという点において、これは高度な詩的言語である。例えば「故郷の小川」に、中也の育った山口市の小川を見ることも出来るだろうし、生者と死者の世界を隔絶する三途の川への憧憬を見ることも可能だろう。 「骨」においては、芸術を象徴する名辞以前の世界が死後に、生活を象徴する名辞以降の世界が生前に見立てられている。そして、汚らわしい肉を破って白く突き出た骨は、いわば死後の世界に残された生前の標本である。「僕」は、骨を通して生前の生活へ思いを巡らせている。 芸術家であっても生身の人間である以上、肉体を維持するために名辞を弄した生活を免れることは出来ない。しかし肉体の枷から放たれた「僕」は、もはや食堂の雑踏の中に坐り、みつばのおしたしを食うような生活をする必要は無い。その「僕」は、生活に酷使された骨を慰労することもなく、「ホラホラ」「なんとも可笑しい」とお道化て嘲笑してみせる。そこには、一般に神聖視、あるいは穢れの骨というモチーフすら面白可笑しく茶化してしまうことで、生と死の価値基準の転倒を企てている「僕」の姿を見ることが出来る。それは、肉体あるが故の生活から逃れ、純粋に芸術のみに生きたいという中也の希求を反映するものと考えられるだろう。 って寺川さんが言ってました。 |